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【父の2周忌に】私なりの供養と鳥もちの思い出

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【父の2周忌に】私なりの供養と鳥もちの思い出

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 2周忌

もうすぐ父の2周忌がやってくる。

 

子どものころはよく考えていた。 

肉親を亡くすとはどういう気持ちなんだろう。

 

自分は正気でいられるのだろうか。

胸がつぶれてしまうのではないだろうか。

 

実際、2年前に父を亡くした。

亡くした朝も葬儀でも泣くことはなかった。

 

 

 

肺気腫との闘いと家族の覚悟

父は肺気腫を患って、最後の2年あまりは入退院を繰り返していた。

夜中に家の廊下で倒れたり、早朝に倒れて救急車で運ばれたりした。

 

倒れることが続くうちに、家族の覚悟は少しずつ固まっていたのかも知れない。

 

私も覚悟があったから、「朝、亡くなった」と連絡が届いても、取り乱すことも泣くこともなかった。

 

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鳥もちの思い出

 

私が小学3年生になる春休みだったから五〇年も前のことになる。

 

小学生なら誰もが海や山、虫や動物が大好きだった時代だ。

 

当時、家族は年に何度か母の故郷に里帰りをしていた。

家から山あいに向かって1時間ほどバスに揺られる。

 

クマが出そうな山村に母の故郷はあった。

 

五〇年前と言えば、地方の町にもアーケード街があって活気に満ちていた。

 

そのアーケード街に鳥専門のペットショップがあり、買いもしないのによく店内に入って行った。

 

その店で私は野鳥を獲る「鳥もち」という仕掛けを見つけたのだ。

 

「木の高くにぶら下げておけば、野鳥がかかる」

 

ペットショップの店主にそう聞いたものだから、興奮して小躍りした。

 

早速父に買ってもらい、春休みの里帰りに持って行った。

 

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Photo by Ben White on Unsplash

今のように野鳥の捕獲が強く禁止されているような風潮はなかった。

 

けもの道を歩き、家族4人は1本の高い木を見上げた。

この木がいいだろう。

 

鳥もちを手にした父は木を見上げ、ほんの一瞬戸惑ったように見えたが、意を決して幹に手を伸ばした。

 

そして身軽にスルスルとその高い木を登り始めたのだ。

 

身軽だけど、すでに若くはない。

 

子どもながらにそこは察していて、私は不安だった。

 

母が心配して「大丈夫?」と父に聞く。

 

木を登り始めた父が、そのとき手を止めてつぶやいたのだ。

 

子どものためや、できんことなんかない

 

そう言って、2階の屋根ぐらいの高さまで登り、鳥もちを仕掛けてくれた。

残る母と私と弟はそれを見上げていた。

 

8歳の私にとってはとんでもない高さだ。

落ちたらどうなるのか、、、しかし父は無事に下りてきた。

 


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 優しさとたくましさ

 その日、野鳥はかからなかった。

 

翌朝、張り切って見に行ったが、鳥はかかってない。

昼になっても夕方になっても野鳥はかからない。

 

鳥もちは、私と野鳥との縁を取り持ちはしなかったけど、父の「子どものためや、できんことなんかない」ということばは、私の心に「父親の優しさとたくましさ」として鋭く深く刻み込まれた。

 

父は無口な男だった。

無口ということは、言いたいこと、言わなければならないことを押し殺してきた、ということだ。

それはどんなにつらいことだっただろう。

 

無口なだけに

 

子どものためや、できんことなんかない

 

の言葉はずっしりと心に残った。

 

これが五〇年後の今も忘れない昭和の父の姿だ。

 

 話さない父子

 

優しくてたくましかった父なのに、成人してからの私は父とはろくに口をきかなくなった。

 

口をきかない理由をことばで説明するのは難しい。

 

口をきかないことが、互いに最も楽でいられる距離感だったのかもしれない。

 

楽だから話さなくていい、と考えていた。

父の胸のうちまでは想像は及ばなかった。

 

  

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 今ならわかること

ただ、私も家族を持ち、20歳すぎた息子を持つこの年になって、ようやくわかったことがある。

 

父は息子と話がしたくてたまらなかっただろうということ。

そんな単純なことだ。

 

せめてビールをつぎ合っていれば、父はどんなに幸せだっただろう。

 

すべてを赦してくれた父 

私が大学を卒業して5年がたったときのこと。

 

「世界1周する」などと言い出して、私が会社を辞めたときも父は文句ひとつ言わなかった。

 

決して豊かではないのに、下宿を許し、大学を出させてくれた。

父は私を大学に行かせるために、工場勤めのあと深夜まで内職をやっていた。

 

なのに、せっかく入った会社を辞めたのに、だ。

文句ひとつ言わなかった。

 

申し訳なくて、悔しすぎる。

 

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父の笑った顔

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その時の私の心の慰みは、3年近い旅から帰国したとき、それまで見せたことのないうれしそうな笑顔で父が笑ったことだ。

 

父は本当は私に言いたいことが、山ほどあったのだと思う。

私が父から聞くべきことは、もっと山ほどあったのではないだろうか。

 

もっともっと話しておけばよかった。

その後悔と無念、自責の念を一人で抱えて生きていくと、これは葬儀のだいぶあとで誓った。

 

亡くなったときは、ただ茫然と慌ただしく葬儀を終えた。

つらいとか悲しいとか感じる間もない。

 

 

笑顔を見せてくれるだろうか

 

葬儀を終えて2週間か3週間が過ぎたころだった。

 

朝、目が覚めると泣いていた。

その後は、泣いて目覚める朝が続いた。

 

後悔と自責の念で、朝だけでなく昼夜なく何かの拍子に肩が震えるほど嗚咽した。

 

2か月、3か月と過ぎるうちに、こう考えるようになった。

 

つまり、陰でひとり泣くことがひとつの供養なのだ。

だからそんな時は我慢しないで大泣きすることにした。

 

悔やんで懐かしんで、数えきれないくらいひとりで泣いた。

 

やがて徐々に朝泣きの回数は減っていった。

 

こんな話は、私以外の誰が聞いても信じないだろう。

 

でも、父はわかってくれるはずだ。

そして、「気にするな」とまたあの笑顔で笑ってほしい。

 

もうすぐ2周忌だ。

 

 

本日は当ブログをお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

 

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